日々のメモ

 

 

17 新インサイダー規制に対する困惑というお話

2013/10/1(火)   

イノベーション絡みの話を展開する前に、ちょっと気になった記事につきまして。

 

 日経新聞9月30日朝刊5面の記事に、金融庁が9月12日に発表したQ&Aで困惑という趣旨の記事が掲載されています。

 

「証券会社の業務に支障が出かねない」と引用された松尾直彦先生のご発言・・・私のSESC在籍時に直接お話を伺う機会は無かったのですが・・・松尾先生のお話の引用と、「はっきり言わなければ、情報漏洩が免責される訳ではない」という金融庁による規制の趣旨、さらには、「・・・仮に知ってしまったら顧客との接触を絶つしかない」とする証券会社のコンプライアンス担当の方の話が内容ですね。

 

 本当に以上の趣旨の発言がなされたのかしら、と改めてそのQ&Aを見直したのですが、具体的には(問5)です。説明を読む限り、前提として、

 

「本来知る必要のない営業部門の役職員に伝わることのないよう適切に情報管理することが求められます。」

 

とあります。リテール部門であれホールセール部門であれ、顧客対応をしている営業担当者に未公表の重要事実が伝達されているということは、もしそれが事実ならむしろその会社の情報管理はどうなっているのだ、という話ですから、上のそれぞれの引用は、別々の話をくっつけて、「困惑した」という結論が先にある記事を書きたかったのではないか、という印象を最初に受けました(もし本当にそうなら、引用された方々からすると迷惑なお話でしょう)。

 

 重要事実を知る立場、投資銀行部門に属する方などがまず該当すると思うのですが、その部門から意図的に流すのでなく、警戒をしなくてはならない場合としては、投資銀行部門で情報管制をしていることから、逆にどの銘柄について未公表の重要事実があるか推察できてしまうケースや、投資銀行部門を含めた部門を統括している取締役など、上席の立場の人に情報が入るケースと思います。特に後者の方については、外部の方とのやりとりで、うっかり答えてしまうということもありえなくないですから、外部の会議や会合などに出席する際に意識しておく、という必要がありますし、コンプライアンス担当者としては、どのような人と面談するかを記録を残してもらって後日検証可能にしておくという必要があります。前者については、ひたすら情報管理の巧拙の話のようには思いますけれども。

 

・・・という訳で、改めてこの記事とベースとなったQ&Aを読んでも、基本的には証券会社の人たちが困惑するような重大な内容とは思えないのですが・・・・。金融庁の視点は、明らかに(本来なら情報を知るはずが無い者が)未公表の重要事実を知って、それを基礎とした取引があった場合、外形的要因などから法令違反の認定可能ですよ、具体的には、規制を回避しようと試みて、直接的に伝えなかったとしても、相手が認識可能かつ認識して行動していれば、抵触しているとの認定します、というもののように思いますので、これで困惑する要素はないです。

 

 いやいやそんなことはないだろう・・・とさらに踏み込んでみますと・・・困惑があり得るとすると・・・たまたま営業担当者が情報を入手してしまった。で、そういうときに限って顧客から、「この株どうよ」などと言われて、正直に言う訳にはもちろんいかず、さりとて「お答えできません」、とか言ったら顧客には重要事実の有無が伝わりかねないので、どうしたらいいのだ(苦悩)、というケースですかね。

 

 確かに困惑するかもしれませんが、会話を録音していることを前提に(携帯電話などにかけ直したらますます疑わしい)、普段どおり、もともと勧める理由があればそれを伝えて、勧めない理由があっても同じ。重要事実が無かったときに聞かれたら答える内容を答える、という以外には思いつきません。

 

 それでもって、「(重要事実を)知らないの?」と問われた場合ですが、「存じ上げません」という他無いように思います(こういうのを嘘も方便というのかもしれませんね)。何か回答のフォーマットを決めたり、対応について一律になるようなことをしたら、顧客の方で情報交換などをしていますから、そんなものは発覚しかねないです。

 

 それで、顧客と接触絶ったら・・・ 一見素敵な解決策のようで、実はそれをルール化したら、これはこれで、顧客に対し、推測される情報を与えていることになりませんかね。

 

 普段どおり自然体で接して、万が一取引などに顧客が及ぼうとした際、そのときには・・・ここでもさらに困惑するかもしれませんね。取引に至った理由を尋ねたりしたらやぶ蛇です。といって、何もせずに取引を続けて、後日相手が調査の対象となった際に、「証券会社の方の発言から分かりました」などと供述された日には目も当てられません。でもこれって、普段の顧客とのつきあい方のあり方、さらには、演技の仕方の問題のような気がします。

 

 もちろん、最初に記載したとおり、そもそ情報管理が機能していれば、どうして営業部門の方が未公表の重要事実を知る立場にあるの(or知ったの)、というところに戻りますので、この困惑するケース、かなりピンポイントの話ではあるのですが、もしこのことを気にする会社が多いとしたら、それは情報管理が実は危なっかしい会社が多いという、別の深刻な問題が顕わになっているということになりますね。

 

 

16 補足

2013/09/20(金)    
昨日の補足をしようと思います。試しに一人議論をやってみます。

□日本の企業において、委員会方式を取り入れるのは問題なのか。立法もされているが。

■委員会方式とその採用に問題があるわけではなく、背景にある考え方や発想の違いからくる得意・不得意を理解せずに使っても意図している効果は上がらないという風に思います。法律で定めていますので、委員会方式はルールとして認められているものですが、何のために我が社が委員会方式を採用したのか、といったあたりを役職員が理解を共有しているかですね。
 もちろんメリットの一つには、米国式のマネジメントと同根の制度ですので、米国の投資家から見た場合にマネジメントがの仕組みが分かりやすい、という点はあるように思います。

ちなみに米国の制度にはそもそもいわゆる我が国でいう監査役というのがありません。Auditorという言葉、日本語では監査役と訳されますが、米国人弁護士に聞いたら会計監査人のことを想起していました。委員会設置会社において会計監査人は置かれるものの、いわゆる監査役の設置がないのは、そのこととパラレルと思います(こうして取締役(会)の役割は、執行役員による経営に対する監督になります)。
 その上で、取締役と執行役員の兼務を認めるかどうかがこの制度の使い方の分かれ目になるように思います。株主の利益保護のために選任される、という観点からは、理念型として取締役は外部者、他方で執行役員は内部の者、という切り分けをするのが明確と思うのですが、我が国の会社法ではそこまで徹底しておらず、執行役員と取締役との兼務が可能
です。
(余談ですが、ドイツの監査役は、Revisorというようですので、我が国もAuditorという言葉を対外的に使うのを止して「Reviewer」「Reviser」あたりにすると、相手にもベースの違いについて説明しやすいのではないかと思います。)

 いっそのこと委員会設置会社においては、取締役を全員外部者にすると、その外部者が監督の実を上げるために、説明に必要な資料の作り方やその内容、ひいては業務の進め方自体も必然的に影響を受け、変わらざるを得なくなってくるのではないかと思いますが、法律上はそこまで徹底されていません。取締役と兼務している執行役員の業務執行の内容を、その兼務している取締役が監督することになったら自己監査と同じ弊害がありますので、だからこそ、法律上設置される各委員会において、外部取締役の数を過半数にすることを求めている訳です。

 それで・・・現実には、外部取締役として就任を依頼するといっても、人材の供給源を結局代表者の知り合いといったことにならざるを得なかったりすれば、外部性といっても絵に描いた餅になりかねませんし、取締役は、現行の我が国の会社法上は、会社に対する責任を負うのが大前提ですので、もちろんその責任の中で株主に対する責任を果たしていくことは当然に求められますが、株主の利益を第一義に考えれば免責される訳ではありません。

 たとえば、委員会設置会社の外部取締役が善管注意義務を問われたケースで、「自分は外部者として、株主の利益を考えた行動したのだから、別に違法とされる点などはない」と抗弁をしても、いささか厳しいのではないかという話です。

 この委員会設置会社は、会社法改正の際に、制度間競争を促すのだ、という趣旨で導入したとのことですが、根本的な発想は別物だと思いますので、だからこそ、制度間競争どころか、あまり普及してこなかったのでは無いかと思いますけれども、上手に活用することが可能であり、かつ、有効と思われる業種を挙げよと言われたら、たとえば、ヨソさんの財産を預かる金融(関連)業と思います。投資家(主に機関投資家や、運用業・助言業に携わった方を想定していますが)の方にも運用の実績と情報があるこの業界・・・極端な話で恐縮ですが、

「理由の無い内部留保なんぞもってのほか、利益を増やせないなら資金を遊ばせているだから、それは投資家に対する背信に他ならないので、還元するのが筋。さもなくば経営者をすげ替える」

という話が極めて自然に感じられますし、出資「元」と出資「先」で用いられる「言語」の共通性など、かなり親和性がありますので、外資系を中心に人材も流動化しているため、人選次第では大変有効と思います。

□企業が利益をあげるか否かを判断基準にしているならば、その監督は、必然的に利益を上げるか否かという点に絞らざるを得ないことになるが、企業としての行動抑制(制約)原理の点で問題はないのか。

■当然ですが、利益の有無のみを判断基準に据える場合、行動抑制の原理は自ら別途設ける必要があります。いかに効率的に利益を上げるかを追求する際に、利益の上げ方に対する制約の原理を自ら設けないなら、法律以外に行動を抑制する原理はない、というのが帰結です。側聞で恐縮ですが、ハーバードビジネスクールで最初に教わるのは企業倫理という話で、これなどアクセルを踏むことを教える前にブレーキの踏み方を教えている気がしますし、自律的な抑制装置としての行動憲章なりを作らないと、暴走し始めた際に止めることができるのは法律だけ(最悪のケースが刑法犯ですね・・・・・国家が強制的に止めるということです)ということになりかねません。

□永続性が発想の根幹にあるという話は法律上明確ではないし、これはこれで曖昧だ。

■確かにどこにも書いていません。無意識とか暗黙知に近い話ではないかと思います。ただ、老舗・・・最近では数十年で老舗という言い方をしていますので、創業数百年という話もざらにある京都あたりの方からするとかなり違和感があるかもしれませんが・・・を尊ぶというあたりは、その現れですし、会社を破綻させた際に法律上の制約以前に、社会的制裁に近いものを受け、なかなか再起が困難である、というのもその現れのように思います。

 しかも、永続性を実践しようとすれば、それは自らだけでなく、顧客や取引先の存在を永続させる、ということにならざるを得ないため、顧客からの観点という視点は当然に入りますし、存在している地域で永続しようとすれば、地域に対する責任や貢献といった視点は欠かせません。
 そう考えれば、企業の社会的責任という議論は、別に輸入せずとも最初から我が国に発想自体はあります。ちなみに企業の所在地については別に我が国に限う必要はありませんので、いずこの地に進出するのであれ、その地で存続し続けようとすれば、いわゆる「焼き畑」「収奪農法」的な経営はできませんし、出資者を永きに渡って満足させるためには、常に新たな価値の創造と従来の価値の向上に取り組まなければならないのですので、「永続性」という言葉が、実用に耐えないほど曖昧とは思われないです。

 もちろん、永続ということを安直に安定することという言葉に言い換えて安逸に堕してしまったり、企業結合によって競争を排除する方法で「永続」を目指せば、結果的に永続しない危険もありますので、常に新しい価値創造に取り組んでいないと、そもそも競争を勝ち残れないと思います。

□永続ということで、潰れるべきものが残るということにならないか。

■潰してはならない価値と、その容れ物に過ぎない組織の区別・峻別ができる、ということであれば、前者が生き残るように算段するべきと思いますが、後者を下手に延命して資金を無駄にするのであれば全く賛成できません。潰すと自らの評判が悪くなるということで延命を図ってしまい、再生の芽すら食い潰してしまうのが最悪の経営の一つと思います。

 なお、経営者が自ら事業を終焉させるというのは非常に苦痛を伴う作業ではありますので、委員会設置会社の方が、外部取締役が「もう客観的に見て、会社としての生命は尽きている」と決定することで、引導を渡し易いというメリットはあるかもしれません。

□利をあげるという発想について極めて否定的に見えるが。

■企業ですので、利を追うのは至極当然だと思いますし、私自身、「利」を真っ正面から取り扱う分野、たとえば金融部門の仕事をするのは極めて刺激的なことで、実は非常に積極的です。

 ただ、だからといって永続できない(永遠とはいいません)ような話であれば、それは市場にある資源をより早く食いつぶしてしまう競争をしているように見えて仕方ないですし、限界なく成長したり、爆発的に利益を上げることを競うのを是とするという考え方に接すると、自然界でそんな動きをするのは、がん細胞、ウイルス・細菌の類くらいではないのか、というのが率直なところです。

 ちなみに、欧米系の金融機関の方と仕事をした際の印象は、利に対してシビアかつ容赦ない、というものでしたが、同時に稼いだら寄付して社会還元し、バランスを取っているように思います。その背景には宗教的な縛りもあるのだろうと思いますので、宗教による縛りが希薄に思われる我が国で米国の制度を、熟慮も手当もなく形式的に採用してしまうと、制約が働かず危険を孕むのではないか、という印象です。
 そういう意味でも、上述した委員会設置会社を我が国に取り込む際に、どれだけ理念型から変容されているか、という視点で見ると実に興味深いです。

□なんだかんだと最終的には違いはそれほど大きくないのではないのに、何故ここまでこだわるのか。

■それを言ったら身も蓋もありませんが、実はそうです。バランスポイントの違いはあるにせよ、どちらの制度を取ったからといって極端に大きく違ってくることは無いように思います。実際、日本特殊論のような話は、説明不足が招くケースが多いです。

 ただ、自らの制度を相手に採用させれば、させた側はホームゲームとして戦うことができる点で有利ですし、戦いを仕掛けるときにも、制度の上で相手が不得手としている点を徹底的に叩くのが常道ですので、借りてきた着物でどこまで勝負できるか心許ない、という印象はあります。もちろん、どちらの発想に立ったとしても、外部に説明する、という点をなおざりにして企業の経営が立ちゆくとは思えませんし、たとえば、(取締役会+監査役)の制度を採用しても、(委員会制度)を採用しても、具体的な場面で検証する内容が全く違うなどということがあるとすれば、それはどちらかが対象の選択や方法を間違えてます。

制度の輸入的な話になった際、委員会設置会社制度も導入の経緯からして、そういう類だとおもうのですが、その制度が拠って立っている根幹・発想などを理解していないと、意図せずして妙な接ぎ木にしてしまい、肝心の接ぎ木をした側を損ねることになりかねません。それこそ、導入した会社にとっての危機だと思いますし、外部取締役の導入を巡る話も同じ雰囲気を感じます。

□それでは外部取締役の導入に反対か。

■反対ではありませんが、それ自体が決定打になって経営監督が劇的に改善することはあり得ないのではないか、という考えです。米国における委員会方式は、円滑に機能させようとすれば、権限分配に始まり、果てはレポートラインやら、文書の残し方についても、後日監督する側が検証しやすいように整える、という点では相当の工夫が要ります。そこに至るまでの試行錯誤にいったい何年かかったのかの指摘を見たことがありません。そうした点の整備に話が及ばないで、とにかく外部取締役を増やすことを義務化して、たとえば過半数にすれば、内部出身の取締役(兼執行役員)の行為を抑制・是正することを期待できる、という根拠が理解できないのです。

 反対に、現状の取締役会・監査役という制度で十分にその機能を発揮させようとすれば、それは何か起きた時には自律的に回復する、何か起きていないか検証するように管理監督機能を発揮する、という話ですが、ここでも外部者の採用が決定的になる訳ではありません。品質管理的発想を用いる限り、誰がやってもちゃんと機能するようにということになれば、目標の設定から、それを砕いたもの、チェックのための証憑としての文書に記載すべき内容から、問題行動を発見した際の報告先や、対処方法など、あれこれ整えることが必須になりますし、その過程で社外の第三者が見ても納得できる形に整理することにつながります。というのも、第三者が見て全く分からなかったり、納得できないなら、それは単にその部門にしか通用しないマネジメントでしかありません(よく言われる、社外の常識という文言は、自ら謙遜しているならともかく、ヨソから言われる事自体、失敗を晒していると思います。)

なお、我が国の制度は、大規模な不祥事が発生した際に変更されるケースが多いように感じていまして、たとえば、先日のオリンパス社の事件は、報告書などを見る限り、社外取締役がいたら防げた、とかいう単純な話ではなく、財テクの失敗を社内ですら隠すことが「できてしまった」、それをもたらしたのは何か、どうしてそれを永きにわたり継続した、または、それを許したか、また今後、そうした類の行為を社内で発生させないようにするには、仮に発生してしまった場合には、いかにしたら早期に発見・対処できるのか、という点こそ重要であると思います。あの不祥事があったから、他の企業にも監督手段として「取締役に第三者を入れましょう」、というのは、目的と手段の壮絶なずれを感じます。

 ちなみに米国から、社外取締役が過半になるのを制度として取り入れよ、という主張を受けているとして、それを主張している者からすれば、社外取締役が過半数になる、という態勢だけでは無く、当然それを支える制度や発想自体の変更を(暗に)求めていますし(というのも態勢だけで機能しなければ、次はそこまで踏み込んできます)ので、本当にそんな制度の導入が問題の解決につながるのか、我が国の制度で十分に対応できるものをことさらに歪めることにならないか、そのあたりを堂々と議論したならば、打ち負けるということは、そうそうあるものかな、という気がします。

 最後に、我が国の「永続性」を基礎とした企業経営のあり方は、歴史の試練に磨かれたもので、そう軽々に放擲するほど価値の低いものや、重要性の低いものとは、とても思えませんし、それをさっさとうち捨てて、ヨソさんのフィールドに一斉に飛び込む前に、持っているお宝、まずは磨くのが筋だと思っています。

 

 

15 ・・・続き3

2013/09/19(木)  

こうして目標達成及び(仮に目標から乖離した場合の)自律回復の手段を整えた場合、それは当然ですが、誰が実施しても使えるものになっていなければならず(そうでないものをフィードバックとは言いませんので)、こうした性質を利用して、第三者の検証に用いる、ということになります。

そうではなく、たとえば最初から第三者が検証するために設けるのだ、という場合、そのこと自体の有用性を全否定する訳ではありませんが、業務の中に、自律的回復というのとはかなり異なる趣旨のものを入れることになるのだろうと思います。

以上をものすごく大胆、かつ大雑把に整理しますと・・・

①組織が自律回復のための制度を導入する
 →「誰でも」自律回復可能としないと意味がないので、当然に「第三者」による検証に用いることができる内容となる
 →実際に第三者の検証に提供する

②そもそも組織内部の人間のすることなど信用できない
 →であれば、後日第三者が検証することで始めて信用可能になる
 →その第三者が検証可能なように、業務に制度を取り入れるべきである

ガバナンス(この言葉も日本語になっていないので余り使いたくない語の一つですが)を巡る話を聞いていて、私自身混乱していたのですが、どうも根本的に発想がかように異なるのではないかと考えたら腑に落ちました。

①前者が性善説である、という訳でもなく、善悪中立的とは思いますが、②後者については、間違いなく性悪説的に設計しています。

で、ここからは我が国の取締役、取締役会、監査役などについての話をしますが、もともと我が国の商法(現在の会社法)が予定していたのは条文を見る限りは①前者です。所有と経営の分離といった理屈は、会社の実質的所有者である株主は、専門的経営者である取締役に委ねて経営の根幹以外にタッチしないということですし、取締役について、立法当初、外部性は要求されておりません。

重要なことは取締役会で議論して決めるべし、決して代表取締役に委ねてはならない、ということで(代表)取締役の暴走を抑制していたのですが、実務では取締役について内部昇格を前提とした運用がされていますので、自分を採用した代表取締役になかなか意見も言いづらいだろう、ということで、会計監査に業務監査を加えて監査役の権限を増やし、さらに監査役も少数ではできることが限られるとして会議体としての機能を持たせ、それでも監査役も、社内で採用することを前提としている例が現実には多いことから、実効性を担保するために社外監査役を導入し、取締役についても外部者を採用して代表取締役の抑制を図る。会社の経営の適正化のための制度の変遷は概観すると以上の流れとなっています。

ところが、外部取締役や外部監査役を経験された方に無理を言って訊ねてみても、

「外から見ているので情報量に限界がある(インフォーマルな情報の流れから遮断されている)」

「たとえ資料をもらっても、内部の力関係のことや、これまでの経緯が分からない状況ではなかなか丁々発止という訳にはいきづらい」

反対に、外部から取締訳を迎えた側に伺っても

「事業部門なりと接点が乏しく、渡すペーパーは情報が整理されてしまっているため、事業の実情・実態は分からないと思う。」

という本音を漏らす方が多かったように思いますので、外部取締役を個々人の資質を超えて、制度として「機能させる」のは決して容易ではない、と思います。

それすら通り越して、取締役は外部の第三者にするのが大前提で、我が国でもそのようにすべし・・・ということになると、①から②へ一気に制度の根本、発想から切り替えることになります。

外部取締役や外部監査役が「機能していない」とすれば、それは、私の知る限り、我が国の取締役会の場合、事前にボトムアップで話が詰められていて、かつ、社内である程度根回しも済んでおり(または、進んでおり)、事実上承認を得る場になっているため、積み上げられている過程を詳細には知らない外部者には、批判も反対もなかなか難しい、という点にあるのではないかと思いますし、そうであれば、人数増やして、たとえば全員社外人としたところで何ら話が解決しません。むしろ話が詰められていった過程を、再度取締役会で「追体験」し、必要に応じて判断根拠となった資料なり、それまでの社内外の反応なりを明示し、その上で賛否を問うのが筋です(例えば、取締役の多い、結構な割合の会社では、会社法上の組織ではない「常務会」という場を設け、少数で実質的な議論しているケースが多かったという話ですが、そのような組織を設けた理由・背景にこそ、取締役会では議論がされていないのが端的に現れています。)。その結果、たとえば社外の方が違和感を覚える業務の進め方や結論の変更もありうべしですし、実際、「フィードバック」というのはそうしたものだと思うのですが、こうした取り組みにもかかわらず、社外取締役が機能を発揮できないというのであれば、そのとき始めて根幹から変更するのが筋です。そうでないまら、いったい何が我が国の企業の統治にとって問題なのか曖昧なまま屋上屋を重ねることになります。企業からすれば、まさに無駄なコストを強いられるのと変わりません。

他方で②の発想で組織を組む場合、米国が典型と思いますけれども、取締役の判断決定事項、社内の人間である執行役員の判断決定事項を事前に明確に切り分けが必要になりますし(実際に米国系企業ですと、何をするか権限規定がやたら細かく、明確になっています)、目標の達成・未達成が常に第三者から判断できるよう「見える化」は必須、という話になります。文書でもなんでも、外部の第三者による検証が前提ですので、たとえば業務は検証のしやすいようにしないなら、もとより隠匿の意図あるべし、といった話になりかねません。この制度は、責任の明確化、失敗原因の追及・再発防止という面では極めて有効です。
(余談ですが、大部屋で「ワイガヤ」的に参加して揉むのでは集団的権限外行為になってしまうので、各自正式にコミットさせて、議事録を残し、結果に対する責任も付いてくる、という形にならざるを得ないでしょう・・・・)。

このように両者は似て非なるものです。また、更に発想の違いとして、我が国の取締役の場合、責任は「会社」に対して負い、株主に対する責任や義務「だけ」を負うという体裁に、条文上もなっていないのですが(会社法の条文は、会社に対する忠実義務、委任関係に基づく善管注意義務、という体裁です。第三者に対する責任の一つとして、株主に対する責任も観念されています。)、完全に外部化した取締役(会)は、条文上の手当はともあれ、会社、というよりは、端的に自らを選任した「株主の利益のための行動を取るよう」求められざるを得ないのではないかと思います

・・・このあたり、日経新聞の朝刊に宮内義彦氏が米国の取締役の行動について、「株主の利益を第一義として考える」旨記載しておられますので、大変に参考になります。

ここまで発想の異なるものを一緒くたにする、ということには違和感を覚えますし(外部取締役の義務化は、発想として②後者の側面が強いです。だからこそ①の発想の方からすると、ベースが違うから無駄になるよ、ということで反対しているのであろうことは容易に想像がつきますし、単に改革に反対とか外国からの投資にとって有害とかいう話でレッテルを貼るのは本質を見失います。)、そんなことをすれば、角を矯めて牛を殺すことになりかねないという危惧を覚えます。

しかも、遡って考えますと、どちらが優れているかという話でもありません。

○会社(または、商い)は、永く続くことをもって是とする、

そこに価値と判断基準を置くか、

●会社は利益を得るための手段・便法に過ぎず、永く続くかどうかではなく(株主にとって関係ない)、利益を上げられるかどうかをもって是とする、

そこに価値と判断基準を置くか、といった違いのように思います。後者は、ヨソさんの大切なお金を預かる・出資を受ける以上、(永続性よりも)まずは利益上げて還元することこそ使命、ということで大変に説得的ですし、他方で前者は、企業が社会的実在として、成長・発展を続けていき、永く社会に貢献することをもって企業の存在価値とする面を持ちます。

私自身は、欧州がそうであるように、我が国は歴史や伝統の積み重ねを大切にしていると思いますし、その中には技術などの蓄積なども含みますが、それらをあえて置き去りにして制度設計を試みると、我が国の社会も組織も、特徴・強みをも喪失するのではないか、と考えておりますので、前者に強い親和感を持っていますし、人も組織も自らの強みを最大限にするのが望ましい、という観点ですと、あえて不得意なところで勝負するほど余裕があるのか、という疑問を払拭しきれません。)

別に①のやり方を採用するからといって日本特殊論を展開する訳ではありませんで、品質管理という万人にとって理解可能な発想をツールとして用いて、永続性という点に重点を置いて経営を管理し、自律回復の観点から必要な措置をとっていますよ、という説明をするだけのことで、管理自体がうまくいっているかどうかと、制度の採否に直接の関係がないことを丁寧に説得して、それでも受け入れられないというのは、いささか信じがたいです・・・もともとの商法自体、ドイツの制度を基礎としており、日本独自ですらありませんし、そのドイツも、米国の投資を受け入れるために米国の制度を是として全面的に制度を切り替えた、などという話を聞いたことがありません。

 

 

14 ・・・続き2

2013/09/19(木)   

 内容の信用性確保については、いろんな方法がありまして、私自身は品質管理の発想を基礎に置いたものが最も使いやすく優れているという見解でおりますが、ただ、立場としては、品質管理というのはせいぜい「発想」「方法」でして、それ自体を「ルール」や「フォーミュラ」にするべきものではないという考えです。

 

このような書き方をすると、強烈に誤解を招きますので、詳しく記しますが、たとえば一時はやり言葉になりました内部統制において、「文書化」というものがあります。

 

もとよりこれも品質管理の発想・・・いわゆるPDCAサイクルを回して、生産現場であれば、ばらつきを管理する、ガバナンスで言えば、違反行為を抑制するための手段として出てきたものですが、なんでそれが手段になるのか(したのか)といったあたりが置き去りになって運用がされると、現場で

 

「文書ばかり溜まって管理がうっとうしい」

 

という笑えない話になっているのを聞きます。

 

 先刻ご承知だよ、という向きも居られるとは思いますが頭の整理のために少々おつきあいいただきますと、生産のための品質管理の場合、管理すべきも数値としての「目標」を定め、運用した結果として出てきたばらつき(目標数値からの乖離)の原因を探って、目標を達成するべくフィードバック、さらには、その上流である目標の定め方、導き方自体に問題が無かったか、という具合に発展させていく、という話だと思いますが、これを生産活動ではなく、サービス分野、端的に業務自体の管理や経営に応用したものが内部統制ですね。

 

 ここで文書は、当初の(経営)目標を記載するものであり、そこから細分化された目標を日々の運用プロセスの中でいかに管理したか、それを記録するものとなります。乖離度合いを文書化により、いわば記録という証拠を残させることで、後日自らフィードバックするともに、(第三者による)検証可能にしたという点に本質があります。

 

 だもので、現場において、「文書ばかり溜まっていく」という嘆きが漏れている場合、品質管理の発想が理解されていない、という場合も否定しませんが、目標の設定も、乖離度合いのフィードバックも、検証も、いずれも形だけのことになっているだろう、という推測がつきます。

 

 もともと品質管理であれば、自律的な回復(フィードバック)のための発想・方法ですので、まずは運用者自らにとって必要なものですし、たとえ内部統制に用いる際も、自らの業務のばらつきを管理するだけでなく、第三者からの検証に耐えうるものにする、という以上のことはないのですが、上述した現場が嘆いている組織では、おそらくは導入の際に、自らの業務の自律的回復、という点が置き去りになってむしろ第三者による検証に焦点があたってしまい、そうすると、検証する側というのはとかく不正を見つけて指摘・是正することが使命ですから、証拠となるものを残すべく、あれも残せ、これも残せ、という具合に肥大化したのではないか、と思います。

 

 第一、本来的な品質管理が機能しているのであれば、文書が多すぎる、現場が疲弊する、という事態でさえ、自律的に解消されていなければおかしいのです。そのような事態は、外から指摘されるべきものではなくて、自ら発見し、解消するのが品質管理の発想・方法ですから。

 

 ルールやフォーミュラではないと思います、というのは以上の趣旨です。もちろん、品質管理の発想に基づいて、一定の方法をルールとして組織内でこしらえて、組織を挙げて遵守し、問題があれば改める、ということを否定しているわけではありませんので念のため。

  

 さらに続きます。

 

 

13 ・・・続き

2013/09/19(木)   

 ちょっと間が空きました。サボっていた訳ではありませんが、早朝に起きて書くとかしないと継続するというのは言うほど簡単ではないということの実証例になっております。

 

 さて、第三者性のところであれこれこねくり回したかというと、自身が第三者委員会の報告書や、調査報告書を書いた経験と他所様の書かれた報告書をなどを見た経緯から、誰が検討していたか、それを類型的に判断する、ということよりも、報告書が、何ら隠したり、誤魔化したりすることなく真摯に事案に向かい合っているか、検討にあたっても、いかなる視点からどのような材料収集をしているのか、そうして集められた材料の内から、何を採用して、何を採用しなかったか、採用した材料にいかなる評価を与えているか、そのあたりを率直に曝していなければ、どのように美しく取り繕っていても、所詮、「結論ありき」に見えてしまう、というところを実感しているからです。

 

 たとえば、調査報告書が「何が起きたか」について書く場合で(再発防止策については触れないということですね)、かつ、本人が全部告白しており、客観的資料も全部本人の告白を支えている、という場合であれば確かに報告書をまとめるのは楽です。しかし、それでも、

 

「本当にこの告白とおりの内容で正しいのか。資料は後日作ったものではないか」

 

という疑いをもって検討されていないならば、そんな報告書はお金と時間の無駄になります。

 

 次に、当事者も調査に協力的でいろいろ証言もとれている。資料もある程度そろっている。しかし、肝心なポイントの一つについて、たとえば口頭で発言されたもので(しかも証拠は伝聞証拠に限られ)、今ひとつ確定的に結論を述べること、言い換えれば断定的に結論を述べるには躊躇を覚える・・・・こういう場合、結論を導く過程で、いかなる事実(及び支える証拠を基に)を材料に、いかなる経路をたどって結論を導いたか、反対の結論に至る可能性について、いかなる理由でもって排除したか、これらを正面から書いていないならば、とても信用などできません。

 

 どう転んでもこの材料でここまで断言できないのではないか、というケースにもかかわらず、断定的に記載しているのであれば、「結論ありきで書いている」、という印象につながりますし、非常に細かく場合分けするなどして、間接事実についても丁寧に積み上げるなどしている場合、それは直接証拠が無いために直ちに結論を断言できない、すなわち、証拠関係が弱い場合ですが、そのことを書き手の側でも承知した上で、それでもなおこの結論に至るのだと、結論を導く過程について、おおむね誰が試みても同じ結論に至るところまで詰めていれば、(書き手が誰であれ)信用できる、といった具合です。

 

 こうして(第三者委員会や中立性が求められる)調査については、誰が検討したか、ということよりも、その内容自体から、誰が読んでも内容の信用性について検討することが可能になっていなければ、むしろそれ自体で信用性に影響を与える、直裁的に申し上げれば、信用できない、と考えるのが適当のように思います。

 

 なお、こうした内容の信用性確保に向けた手当をしてあると、仮に不正を指摘されている事案の正に当事者が、その不正を調査した場合でも、(実際に不正があったと仮定して)、その方が想定されるうる論点に対して真摯に検討していないならば、そのまま調査が不自然さ満載になってしまいますので、後日確実に信用性に乏しいとして排除できるものと思います。

 

 ちなみにこうした論じ方・・・「議論における反論可能性」を大事にするとでもいうべきものですが、学生時代に平井宣雄教授の講義で、常に強調されておりまして、当時はその本当に意味しているところを理解できていませんでしたが、いざ調査報告書などを記載する立場になりますと、その言葉の重さを実感します。

・・・と長くなってきましたので、分けます。

 

 12 第三者性

2013/08/30(金)  

本丸に突入する前に、誤解を招くといけませんので、若干補足しますと、間違いなく当事者と全く無関係の第三者が検証しないといけないケースというのもあります。

 

先日の柔道関連の不祥事などは、報道の限度で見る限り、代表メンバーから「指導と称する暴力を振るわれた」的な告発、しかも、協会に訴え出たのに対応してもらえなかったという点で告発している側に相当大きな不信感がありますから、こういうケースで関係者、とりわけ告発対象に近い人を関与させると、いわば自己監査と同じ問題を抱えますし、告発した当人達からすれば「口封じ?」「圧力?」という印象を与えかねません。特にそうした関係者が聞き取り調査とか実施しますと尚更ですね。

 

ちなみに、内部告発などを受けて調査を開始する場合、その当の依頼者自体が不正行為をしたなどとして疑われているケースもありまして、そうすると、調査はしなければいけないのに、疑われている当事者に委託を受けた「第三者」など、そもそもが信頼・信用できないという、真剣に第三者性を追求すればするだけジレンマを抱えることになります。

 

そんな場合に備えて、例えば株式会社でしたら監査役、という存在があるのですが、ここでも内部から昇格した人間が監査役になっていますと、いやそんな監査役など信用できんぞ、という指摘を受けることはありますし、いやいやそんなときのための外部監査役ではないか、ということで、その外部監査役が調査をすることとして、諸事解決するかというと、実際にその方がどういう由来で就任したかを調べてみたら、その方は、代表取締役が人選していました、という具合で、実は外部性なり、客観性・中立性というのを真剣に考え始めると、外部取締役や外部監査役を増やすべし、という話も同じ話を抱えていまして、この辺に私自身も関心があるものですから、外部取締役などについても述べてみたいと書いた訳です。

 

じゃあ、おまえさんはどう考えているのかということですが、私自身は、外部性や中立性を求めるのも、調査の信頼性確保のための一手段・便法に過ぎないという考えですので、形式的に外部性、中立性を定義して類型化するよりは、徹底した可視化(第三者委員であれば、その方の選定理由、選定の過程、調査のプロセス、結論に至った論理、採用した根拠などなど)を施すことで、仮に問題が存在しうるとしても顕出させることで修正や排除が可能になっていれば、それで信頼性は担保できるのではないか、と考えです。

 

そう言うが、それでは最初に出したケースに戻って、体罰をしたと指摘を受けている人間に、体罰があったか否か、被害を訴える者を調べさせるとしてもいいのか、という話になった場合は?

 

頭の体操です。類型的な判断をしないため、論理的には「ありうる」になってしまいます・・・が・・・・体罰をしたと指摘を受けているにも拘わらず、あえてその者に調査を担当させた理由も可視化により表面に出ています。

 

とてもではありませんが説得的な理由付けをすることができず(少なくとも他人を説得できる理由付けは難しいでしょう。理由が付いたとしても、それはこじつけというものです。)、結果として誰の支持も得られない、そのまま排除されるものにならざるを得ないので、そのような選択は最初からしないでしょう、ということになろうかと。

 

でも、それだと「あくまでもこれこれの理由です」と強弁されたときにどうしようもないのではないか。

 

→ 強弁している事実が、理由を含めて明らかになっています。それでもなお、そんな調査を信用したい方をお止めする術は確かにありません。ただ、類型的に第三者に当たらない人を無理矢理第三者に仕立てても同じではありませんか、類型化されているので判断が楽そうに見えるだけで・・・。

 

まだまだ続きます。

 

 

11 第三者機関のお話

2013/08/28(水)  

不祥事などが起こると、呪文のように「第三者機関により原因を徹底解明して、再発防止策を云々・・」という話になります。私自身が第三者機関に関わったこともありますので、実体験したところから少々思うところを述べてみたいと思います。

 

まず第三者性を要求する趣旨ですが、不祥事を起こした当事者に原因解明をさせると、甘くなったり、責任回避がなされたり、最悪の場合、隠蔽をしてしまう可能性がある、という点にあります・・・・ということなのですが、これは実はある一面しか捉えていないです。

 

第三者が入って調べても、実は事実にたどり着きにくかったり、隠れ蓑に使われる、ということがありまして、その効用は世間一般で言われているように万能ではありません(世間一般で言われていないかもしれません・・・)

 

その理由もまた言ってしまうと身も蓋もないのですが、第三者ゆえ、つまり、不祥事を起こした対象と無関係であるために、その内情や実情について、「よく知らない」「分からない」からですね。

 

おいおい法曹資格を有している者だから、ちゃんと調べられるはずでしょう

 

・・・・・・調べられるかどうかは修練度次第でもありますが、例えて言えば、強いサーチライトがあっても、照らす対象を理解していないと、とんでも無いところを照らしたり、照らすべきところを照らせない、という話になります。

 

もちろんこうした状況に陥らないようにする手立てはあります。時間と手間を必要なだけかける。

 

(余談:ケースを申し上げる訳には行きませんが、某組織が不祥事を起こした際、検察官出身の方が第三者委員会のトップで入って、名前だけかといえばとんでもない。長期にわたり、深夜まで内部の方と徹底的にやりとりを行い、当初はその分野について素人扱いされていたそうですが、報告書をまとめるころには内部の方から畏敬されるまでに至った方がおられます・・・本人からではなく、内部の方から尊敬を勝ち得るに至ったよと伺いました・・いやはや一度是非ご指導を受けたいです)

 

ただ、スケジュールの都合などで、そうそう時間に余裕がない場合も多いと思いますし、それにもかかわらず、事実にたどり着かなければならない場合はどうするか・・・・中の人を使うのが現実的な解です。現役ということでどうしても問題があるならば、やむなくOBや出身者、ということになるかもしれませんが、もともと持っている情報量、これは暗黙知の部分も含めて、いきなり第三者が来てとうてい太刀打ちできるものではありません。

 

ただし、使い方で留意すべき点というのはあります。上述した、「身内に甘い」というところですね。事情を分かっているということと実は裏腹になりますから。

 

実際、組織で不祥事が発生した場合、初動対応を取るのは通常内部の組織ですし、その情報を最初から否定して、全部第三者で取得しようとするのは現実的ではありません。

 

そんなことで、明日以降は、第三者性と事実のせめぎ合いのところ、再発防止や改善策でいかに実効性をあらしめるか、後は余勢を駆って外部取締役の話あたりまで考えてみたいと思います。

 

10 誤発注を巡って

2013/08/26(月)
 だいぶ更新の間が空いてしまいました。
 
みずほ証券の誤発注事案の判決(第一審)ですが、読み応えありますので、未読の方は是非全文通読をお勧めします。
 
最初に解説読んでざっくりした感じの判決だという印象を持っていたのですが、「当裁判所の判断」を読んでますますその感を強く持ちました。東証側の責任を肯定している箇所は、少々長いですが、以下のとおりです。
 
「以上の事実を総合すると、修正との関係で求められる回帰テストの確認を怠ったことだけでは重大な過失があるとまでは言えないにせよ、被告は、その完全無欠性の確認ではなく、認知できた不具合件数の推移からの推論によって、その提供判断を行って本件売り注文のような注文に関しては取消注文が奏功しない被告売買システムを取引参加者に提供した上、有価証券市場の運営を現に担っていた被告の従業員としては、その株数の大きさや約定状況を認識し、それらが市場に及ぼす影響の重大さ容易に予見することができたはずであるのに、この点についての実質的かつ具体的な検討を欠き、これを漫然と看過するという著しい注意欠如の状態にあって売買停止措置を取ることを怠ったのであるから、被告には人的対応面を含めた全体としての市場システムの提供について、注意義務違反があったものであり、このような欠如の状態には、もとより故意があるというものではないが、之にほとんど近いものと言わざるを得ないものである。」
 
この結論に至る前の前段で、システム提供義務とは離れた、個別的な注文取消義務について「成立の余地なし」と言い切っていますので、システム提供義務だけに絞ったものと思います。
 
ちょっと脇にそれますが、個別的な注文取消義務について、
 
「・・・上記指図に従う義務の存在にかかわらず、原告の取消注文を実現するようなシステムを提供する義務が問題になるのであり、原告の取消注文に対して被告が個別の取消処理をするという具体的な行為をなす義務が生じる訳ではなく・・・」
 
と認定している点に若干ひっかかりました。「発注の取消」がシステム上提供を予定されていて、実際に発注後に取消された場合に処理をするのが債務でなければ、それを怠ったところで債務不履行になりようがなくなります。注文の取消ができなかっただけに留まらず、売買停止をしなかったことが問題の焦点であり、判決はざっくりまとめれば、それらをシステム提供という全体としての義務である、という枠組で判断しているのでやむを得なかったのかもしれませんが・・・。
 
今回のケースでは、売買停止まで踏み込まなかった点をも捉えて重過失と認定しているのですが、売買停止というのは、証券関係者であればただ事では無い性格ですので、過誤発注であるかどうか、少なくともみずほ証券の担当者の方に連絡して、できれば注文取消により処理しようとした東証の担当者の方の対応というのは無理なかるところではないかと思いますし、もし判決の結論とおりなら、大きく問題になりそうなら有無を言わさず、いきなり大なたを振るわないと、むしろ重過失になりますよ、といっているに等しいように思います。
 
ただ、この判断を一般化できるか、というと少々疑問には思いますので、かなり極限的なケースでの事例判断的な話ではないかと。
 
ことがシステムの問題ですから、「回帰テストの確認を怠っただけで重大な過失がある、とまでは言えないにせよ」、というあたり、不具合を認識していながら最終確認を怠ったのであれば、不具合を認識していない場合と比較して、その点に重大な過失を認定して差し支えないのではないかと思いますので、このあたりの認定をもっと突っ込んでほしかった気がしますし、東証の側で自発的に過誤発注であることを認識して対応のため(おそらくは)大わらわだった現場に、この第一審の判決はかなり酷なロジックという気がします。
 
この判決の結論を支える最大の(事実上の)根拠は、1円という価格や、61万株、という、発行済み総数をはるかに超える、と認定された点にあるように思いますが、1円というのはともかくとして、発行済み株式総数を遙かに超えて、フェイルが起こりうる、ということまで常に想定して行動する、ということを市場開設者として求められるのでれば、実際、東京高裁判決においても、結論を基本的には維持していますので・・・最初の注文が「正常注文」と認められた、というあたりで、本件のような事案ではすでに過失の萌芽があり、そこから防げなければならないとするのが論理的な帰結のように思います。
 
ただそうなると、正常注文かどうかを判断するロジックといいましょうか、その中身については、人間が物理的に対応するのを要するのではたいてい間に合わなくなりますし、判決も市場システムの提供という全体的な面を強調していますから、システム的に対応することが必要で、それゆえ、注文受付の段階で、発行済み総数などのデータを、データベースにあげておいて、それと照合して、注文を排斥する、というところまでやらないと市場開設者としての責任を免れられないということになります・・・
 
・・・東証にそこまで求めるべきかというと、あくまでも個人的な感想に過ぎなくなってしまいますが、証券会社で手当しないと、東証のシステム構築・投資の負担はかなり重くなる気がしますし、そうなると、更にバグやら不具合をはらむのではないかと。
 
というのも、売買停止をしなければならない場合というのは、別に誤発注に限られていませんので、たとえば大規模な相場操縦が行われて取引の公正が保てない場合なども、停止しなければならない取引のカテゴリーに含まれてしまう気がしますが、どの段階で不公正取引と判断するのか、その基準って作れるのか、作ったとして現実に運用の際に判断できるのか。
 
こうした点を含めてあれこれシステムへの要求を複雑にしていけば、システムは複雑な処理を求めれば求めるほど、エラーを含む可能性は増していきますので、かえってシステム全体を危殆に曝してしまう気がします。
 
身も蓋もない感想になってしまいますが、発注取消が、システムの不具合でできなかったのはまごう事なき事実ですので、そこに焦点を当てて掘り下げた方が、実務にとってより傾聴すべき貴重な判断になったのではないかと思います。
 

 

9 誤発注を巡って

2013/08/07(水)

みずほの誤発注に関する東京高裁判決を探したのですが、未だ裁判所のサイトにアップされませんので(言い訳)、地裁の判決を参考にしようとしたのですが、これも裁判所のサイトにはアップされていませんでした。

 

仕方ありませんので、判例時報でも丁寧に読むことにしようと思います。

 

本件は、役所に出向前に発生した事案でもあり、出向後も本事案に直接関わったことはありませんし、判決の中身を全く見ていない状態ですので、ある意味自由な立場で分析できると思います。

 

しかもこのケース、裁判所においてシステム関連の案件で過失がいかように認定されるのか、大変参考になると思います。

 

ちなみに新聞記事を見る限り、一審判決でも、二審判決でも、東証が売買停止のためのシステムに不具合があったことを見逃したことをもって、直ちに重過失があったとはいえないとしています。

このあたり、第一審の判決を紹介しているサイトさん(http://www.netlaw.co.jp/topics/topics_014.html)を参考までに拝見しますと、第一審は、

 

「本件システムを構築、納入したのは富士通であるが、運用テストにおいて不具合が発見されその修正を行ったときに、本件不具合が作り込まれた・・・修正に

伴う悪影響が他の部分に出ないかどうかを検証する目的のテストを行うべきものとされており、その一次的責任者は富士通であるが、東証にもこれを確認することが求められたもののその確認を行った事実はないから、ここにおいて東証にも注意義務違反がある。・・・」

 

とあり、他方で

 

「・・・ただ、本件不具合の発見が容易であったということはできないから、本件不具合を東証が見逃してしまったことをもって直ちに東証に重過失があるとまではいえない。」

 

と重過失を否定する一方で、

 

「東証は、本件売り注文のような注文があったときに取消注文が執行されないシステムを取引参加者に提供した上・・・株式市場の運営を担ってきた東証の従業員としては、その株数の大きさや約定状況を認識し、それらが市場に及ぼす影響の重大さ容易に予見することができたはずであるのに、この点についての実質的かつ具体的な検討を欠き、これを漫然と看過するという著しい注意欠如の状態にあって売買停止措置を取ることを怠ったのであるから、東証には人的対応を含めた全体としての市場システムの提供について、注意義務違反があったのであり、このような欠如の状態には、故意があったというものではないが、これにほとんど近いものといわざるをえないから、重過失があったというべきである・・・・」

 

としているようですね。

 

この部分だけ見ると、結論が先に決まっていて、ロジックをくっつけているように見えます。中身について言及するには、不具合を発見できなかったあたりの事実認定と、今回の誤発注の際の東証の従業員の方の具体的な動きを見なければなりませんが、一部を見た限りでは、1円という価格や、61万株という株数に引っ張られた印象があります。たしかに、そんな価格での取引あり得るか、という話ではあるのですが、東証のシステム上にいかなるアラートがされたか、それが分からない状態で接すると、疑問符が湧きます。

 

こうして全く予断なく本件を見ると、そもそも1円という価格をもって、市場に注文を出すことができるシステムが、証券会社にあったこと自体が疑問に思うのですが(しかも、警告無視して発注したようですし・・・ヒューマンエラーですな)、私自身は、当時から苛烈なまでの速度競争をしている各国の市場がしていたという頭でおりますので、取り消し出来なかった点を捉え、しかも理由として、売買停止権限が与えられ、その適切な行使が証券市場開設者である東証の義務であるから、という点が挙げられているあたり、かなり大上段な感じではあり、その辺に素朴な違和感のわき出るのを隠せないまま、そのあたりを解明すべく、まずは第一審判決の全文を手に入れて精読してみます。

 

(こんな感じで、目の前にある事実を元に思考する過程をさらけ出しております。次に触れた事実次第で、全く異なる見解に至ることも大いにあり得ますので、どうぞご容赦のほど)。  

 

 

8 インサイダー取引について 6

2013/08/5(月)

続きです。

 

過失行為の防止について

 

自動車について、業務上過失致死傷のケースの根絶が難しいように、情報の授受について、過失により行ってしまうケースも根絶が難しいのではないかと思います。もともと人は「エラーをする生き物」ですし、そうであればこそ、どこでエラーが発生するか、事前にあらゆるケースを想定して、対策し尽くす、という訳にもいきません。

 

とは言え、常識的なコストの範囲内で対応は必須になりますから、①情報の流れる経路・入手者を想定のうえ、②各経路における流出・漏洩するポイントを想定して、対策を取り、③運用しつつ、定期的にフィードバックして精度を高めていく、といったことならざるを得ないように思います。

 

①については、どの部署で、どのように重要事実が発生するのか、実質的に決定されたことになるかを徹底的に洗い出して、

 

②については、各ポイントから流出した場合に、どのように拡散していくか、といったあたりのシミュレーションを通じて、その場合に被害が最小範囲に抑えられるよう、経路や保管・管理について反映させる、

 

③については、実際に半年や1年といった単位で運用してみて、当初の想定した問題に収まっているか検証するといったことになろうかと思います。品質管理的な発想ですね。

 

この防止策については、特効薬も魔法の杖もありません。当然ですが、それぞれの会社毎にどのように情報を管理しているか、し易いかが全く異なります。たとえば、人数が限られ、部門全体で情報を共有して対応することが強み、という場合には、情報の保管から持ち出し、やりとりについてのルール化は必要でしょうし、過失で情報が流通しないよう、うっかり情報を流出させそうになった時点でメールサーバーの段階でで止めるといった手当も必要になってくるように思います。反対に、会社全体の人数が極めて多い一方で、システム的に対応しようとしてもコストも時間もかかる、といったケースでは、運用上できる範囲のこと、たとえば、情報の発生・移動の経路を可能な限り絞ることをルール化して徹底する、といったことでまずは対応することになると思います。

 

一般に管理については、当事者が増えるほどに手間とコストが増加していきますので、今般の改正をきっかけに、情報管理のあり方自体を再検討するのも一案かもしれません。

 

なお、冒頭に、「人はエラーをする生き物」と書きましたとおり、どのように「フールセーフ」なシステム作ろうと、使っている側が「(本当は問題なのに)自分の行動に間違いはない」と勘違いして確信していますと、ミスは起きますので、コストとの見合いの中で、できる限りのことを、できれば重層的な対応をして、定期的に検証する、というのが月並みですが、最も有効と思います。

 

対策や対応で重要なことは、「会社の実情をよくよく理解した上で、実態に照らして遵守しやすいものにする」という点です。私物の携帯電話を禁止し、情報流通はシステム上で監視している、という手段を講じたところで、息抜きのための喫煙室で未公表の重要事実が声高に話題になっていたら目も当てられません。ただ、だからといって喫煙室を監視する、というのでは、その喫煙室が、外部の喫茶店に移動する、という結果を招くのが関の山と思います。一方的に管理されるというのでは、される側が、表面上はともかく内心反発することも多いと思いますので、くれぐれも対話、理解、納得という点に留意いただきたく思います。

 

最後は身も蓋もない話になってしまいましたが、関与している担当者の意識がいずれも高く、管理が自発的に適正に行われ、疑問に思った時点でコンプライアンス担当者などに対する確認が確実なされる、定期的に他社での失敗事例について、紹介・研究がなされ、運用に反映される・・・

 

こういった良循環に持ち込むことが、インサイダー取引などの防止のために遠回りのようで近道と思います。

 

 

7 インサイダー取引について 5

2013/08/5(月)

 

意図しない取引の防止について

この項はいささか込み入った話になります。

 

インサイダー取引を含め、意図せずして行われる行為を大別すると、

① やっていることを認識はしているものの、意味を理解していないからそのまま行為に及んでしまう、

② やっていることの認識が欠けている、

の2種類になります。

 

インサイダー取引、特に情報授受がなされる場合を想定すると、②のケースよりは①のケースの方が多いかもしれません。

 

なお、意図しないからといって、①の行為がいわゆる過失による行為である、ということにはなりませんので注意が必要です。刑法上のやや細かい話をしますと、「法律の不知は恕せず」という言葉があり、法律上の意味が分からないからといって、行為が許されることにはなりませんよ、という扱いです。意味が理解できないからと何でもかんでも罪に問われないとすると、極端な話、立法に関与した者だけが処罰されるというおかしな結論になりかねないので、通常は、自分の行為について認識していれば、特別の例外的な場合を除いて、法令に反する行為であることの意味の認識もあるでしょ、という想定をしています。

 

窃盗や、傷害を例にすると分かりやすいかもしれません。自分の金銭ではない、という認識があれば、それを無断で持ち去る行為をすれば、また、殴って怪我をさせた対象が生きている人であるという認識があれば、それがどこの誰か分からなくても、それぞれ窃盗罪や傷害罪が成立することになります。

 

インサイダー取引規制の場合、金融商品の取引をしているという認識が欠けることは通常は考えにくいです(認識が欠ける場合というのは、たとえば夢遊病の状態で取引した、とかかなり極限的な状況になりますから)。他方で、今般の改正で規制される情報の授受については、重要事実、というものが単なる情報ではなく、一定の類型に属する事実として、意味や評価を伴うものですので、その意味や評価を理解していないと、「うっかり」「そんなつもりでなく」情報の授受に及んでしまう、ことは十分にあり得ます。

 

それを100%未然に防止するとなると、過失行為の根絶という非常に困難な話になります。

 

6 インサイダー取引について 4

2013/07/30(火)

・故意による情報伝達の防止について

 

情報を意図せざる第三者に漏洩・伝達されないような方策(ツール)は世の中多々あると思うのですが、実際問題として故意犯を100パーセント防止できないのと同じように、対策を講じるにあたり、故意(意図的)に規制に抵触する行為に及ぶのを防止することは出来ない、ということを前提として対応する必要があります。

 

こうしたときに参考になるのが、窃盗犯は、

 

「事前に複数下見して、もっとも入りやすいところを選ぶ」

 

という話です。

 

今般禁止された行為(重要事実の伝達)に及ぼうとした際に、「ここではやれない」という意識に至ればよろしい訳で、役職員に完全なる聖人君子を期待するのはいささか難しいとしても、自らの同僚でいる間は規制に抵触するような行為に及ばないよう、制度を作り上げて、運用する、ということになります。

 

具体的な対応としては、物理的に情報伝達を規制する、という観点と、役職員の意識付け、という観点の2つの観点が大事になります。インサイダー取引を実際に行った方と直接話をする機会がありまして、その際に述べていたのが、

 

「まさか自分の行為が見つかるとは思わなかった」

 

というものです。実際、見つからないだろうと思っているからこそインサイダー取引に手を染めたのだと思うのですが、実際に取引に及んだ方ですらこういう意識でしたから、

 

「私は情報を伝えただけではないの?」

 

程度にしかまだ理解していない方をこれからいかに意識付けするかというのは、確かに法務・総務・コンプライアンス担当の方にとっての腕の見せ所にはなります。

 

意識付け・・・刑法でいうところの、反対動機の形成・・という話なのですが、具体的には、

 

① (伝達先がインサイダー取引に及べば)取引の痕跡を抹消することはできない以上、発覚する可能性が極めて高いこと、

② 一旦発覚するや、会社を含めた社会的な信用が失われ、当該業界に居られなくなること、のみならず、

③ 本人には刑事手続きや、課徴金といった可能性に加え、会社から高額の損害賠償請求を受け、社会経済的に破綻しかねないこと、

 

を抽象的ではなく解説することで、いかに規制違反をすることが、割に合わないか、ということを認識してもらう訳ですね。

 

こうした意識付けを行う場合、基本的には社内外での座学、が利用されると思います。その効用を否定する訳ではありませんが、内容が基本的には「功利的な観点」(こんなことをしたらこういうデメリットが・・・)から行われるものであることから、工夫しないと飽きられてしまいます。毎度毎度、損害賠償の金額が数億円で自己破産しました、という話をしたらまずそうなります・・・より正確には睡眠のお時間になりますね。

 

そこで、せっかく時間とコストをかけて実施するのであれば、例えば、重要事実が発生して、第三者に伝達してよいかどうか、具体的な場面毎に判断を求めるという「ロールプレイ」や「シミュレーション」的なもの実施して、冷や汗をかいていただく、といったことも一案と思います。全員という訳にはいかないでしょうから、重要事実に触れる可能性のある人に個別的に体験してもらう訳ですね。

 

他方で、物理的な情報伝達の規制については、手段としてはあるにせよ、本気でくぐり抜けようとする者からすると、アナログな方法で回避可能という点はどうしても否定できませんので、社として役職員が規制に違反しないよう、その規模において必要と考えられる態勢の整備を尽くし、かつ、常にアップデートをしているという姿勢を示すことで、「この会社で馬鹿なことはやれない」という意識付けの一環として捉えるのが無難なように思います。

 

さもないと、例えば私物である携帯電話を利用していないか、監視カメラで常に撮影・記録し、廊下やトイレなどで会話がされていないか、録音して検証する、といった、かなり息苦しい状況になりかねません。効用を否定する訳ではありませんが、検証するだけでも相当に人件費を必要としそうで、おいそれと導入できない話になります。

 

なお、昨今の課題として、新社会人など、意識付け自体が未了なケースがある場合、

「それが違法だと教えられていたら、やりませんでした」と笑うにも笑えない状況に陥らないよう、新人教育の際にプログラムに入れておく、といった配慮が必要に思います。

 

さて、次回は、意図せざる流出について述べてみたいと思います。

 

5 インサイダー取引について 3

2013/07/30(火)

 情報管理と仰々しい名称を使っておりますが、情報の発生から移転、保存までの間をいかに把握して、意図せざる利用や移転を防ぐか、という話ではあります。

 

通常は、品質管理的発想に基づいて管理するものと思いますが、これは、あくまでも問題が生じることを抑止する手段に過ぎませんので、管理をすること自体が目的となっては本末転倒になります。(管理のためのサイクルを回していると、それだけでやっている気になってしまいがちですが、改善すべき問題点を発見したら対応し、もしより深い原因などがある場合には、さらに根本的な点に基づいて手を打つ、という不断の取り組みを求められる話ゆえ)

 

最初に手を付けることとしては、情報が、どこで、どのように発生するかを仮定した上で、発生した情報が、どのような経路を辿って、いかに利用され、最終的にどこで保存されるかを想定することになろうかと思います。

 

ことが重要事実、ということであることから、発生場所については比較的想定しやすいのではないかと思われますが(取締役会→さらに遡って、当該取締役会に上程する案がどの時点で決定されたか→さらに遡って、その案が社の方針として提案されることが担当の部門で採用されたのいつか・・・といった具合に遡っていって、「水源」までたどり着いたら、どの段階で「発生」or「決定」と考えるのか、ここに法的な「評価」のプロセスが入ります。)、発生した情報が、その後いかなる経路を辿って保存されているか、といったあたりは最も面倒な検討が必要になろうかと思います。

 

情報の保有という場合、「全員で共有しましょう」というものから、「ごく限られた僅かの人間以外に決して拡散させない」といったところまで管理のあり方があると思いますし、どちらが正解、ということは無いと私自身は考えますが、採用しているそれぞれのやり方に応じて、無用な流出や使用を防止する方策は必要になってきます。

 

とりわけ前者の場合には、保有している数が多くなるでしょうから、全員を対象とした情報管理、という大変な作業を求められることになります。もちろん、他方で、情報の共有をごく僅かな対象者に限ったとしても、実際にその範囲に限られているかを担保するには、チェックのための方策と、その検証の過程を設ける必要がありますので、現実問題としてはこっちの方が楽、という話ではないです(上下水道の水漏れ個所を特定するイメージですね。)。

 

長くなってきましたので、続きます。

 

 

4 インサイダー取引について 2

2013/07/26(金)

改正により追加された部分(の一部)は以下のとおりです。

 

(未公表の重要事実の伝達等の禁止)

 第167条の2 上場会社等に係る第166条第1項に規定する会社関係者(同項後段に規定する者を含む。)であって、当該上場会社等に係る同項に規定する業務等に関する重要事実を同項各号に定めるところにより知ったものは、他人に対し、当該業務等に関する重要事実について同項の公表がされたこととなる前に当該上場会社等の特定有価証券等に係る売買等をさせることにより当該他人に利益を得させ、又は当該他人の損失の発生を回避させる目的をもって、当該業務等に関する重要事実を伝達し、又は当該売買等をすることを勧めてはならない。

 

構成要件に整理すると(一部端折ってます)

 

① 上場会社等に係る第166条第1項に規定する会社関係者であって、当該上場会社等に係る同項に規定する業務等に関する重要事実を、同項各号に定めるところにより知ったものは、

 

② 他人に対し、

 

③ 当該業務等に関する重要事実について同項の公表がされたこととなる前に

 

④ 当該上場会社等の特定有価証券等に係る売買等をさせることにより当該他人に利益を得させ、又は当該他人の損失の発生を回避させる目的をもって、

 

⑤ 当該業務等に関する重要事実を伝達し、または当該売買等をすることを勧めてはならない。

 

となります。

このうち、①と③については、法166条1項と規定ぶりは異なりますが、シンプルにすると、

 

公表「前」に重要事実を知っている場合に、

 

となり、そういう状態下で

 

② 他人に対し

 

⑤ 重要事実を伝達、or 売買等をすることを勧めてはいけない

 

と規定しています。

 

すぐにお気付きになりますように、「目的」が付されている点で166条1項と異なります。166条1項は、目的などを問うこと無く、「重要事実を知って」「公表後でなく」「取引」したらアウトです。

 

これに対し、今般の改正では、目的が必要となります。目的の有無を問わない場合と比較すれば、「目的」が存在していることを立件する側で挙証しなければなりませんのでハードルは上がっています・・・・と形式的な説明にはなるのかもしれませんが、そもそも「他人」さんに何の意図もなく、

 

「ほな、あんたさんに重要事実やるで」

 

と渡す方はいないでしょうから(いたら別な意味で心配になります)、現実に立証のハードルが上がることは考えにくいように思います。

 

もともと重要事実自体、公表前に知って、あえて有価証券の取引に及ぶ動機があるとすれば、それは、一般の人であれば、誰しもその重要事実を聞けば、公表後に「価格が上昇する」 or 「価格が下落する」といういずれかの判断に至るだろう、ということを前提にしています。

 

ですので、情報(未公表の重要事実)を持っている側としては、その情報を伝達した時点、または、売買を勧めた時点で、伝えられた側(売買を勧められた側)が、その情報を得て取引をすることで、利益を得る、または、損失を回避する、といった判断に至っていないとは言い難く、こうして目的を有していなかったと否認したところで、客観的な側面の認識を有している限り(このことを否定するのはかなり難しい)、目的の存在を否定することはかなり困難に思われるからです。

 

このため、あり得るとすると、

 

「いやあ、重要事実だとは全然思わなかった」

 

という言い訳くらいでしょうか。ただそんな回答をしようものなら、

 

「じゃあ、あなたはどういう性質の情報だと理解していたのか」

 

とあれこれ詰められるでしょうし、その場合に、いささか苦しい感じは否めない気がしますね。何で情報渡したのか、と問われた時に、「実は愉快犯でして」という言い訳はまず通じませんでしょうから。

 

こうしたことから、重要事実を知った場合、公表前に第三者に伝えれば、基本的に改正法に抵触する、という前提で対応いただくのが安全ですし、課徴金の場合、故意による行為に限定されませんので、これまでのような

 

「自分が売買しなければ関係ない」

 

という意識が残っている環境下ですと、ますます役職員による情報の流れをいかに適切にするか、といったあたりが重要になるように思います

 

・・・というところで次は、情報管理のあたりについて触れたいと思います。

それでは良い週末を。

 

 

 

3 ボランティア

2013/7/25(木)

本日は、午後から外出しまして、骨髄の同意立ち会いというのをしていました。


白血病の患者さんなどが骨髄の移植を受ける際、大量の抗ガン剤と放射線で自身の造血幹細胞(骨髄)を死滅させます。それゆえ、骨髄提供者の方が意思をひっくり返すと、命の危険に晒されるため、同意を撤回できないことになっています。この意思表示前の説明プロセスが適切か、意思表示が本当に真意に基づいているのか、を担保するべく、弁護士が第三者として立ち会っています。

その手続きも終わって、最後に医学的な説明をしていた医師の先生が、提供者の方に向かって述べた言葉が心に残りました。

「改めて御礼申し上げます。骨髄の提供は、リスクがあるにも拘わらず、提供者ご本人にはある意味全くメリットがありません。まさに身を削ったボランティアです。私自身は、あなたの骨髄を取り出す医師とは異なりますが、移植に携わる者として、医師を代表してあなたの尊いお気持ちに感謝を申し上げます。」

と言って深々と礼をしておられました。

骨髄提供をしても謝礼は出ませんし、休業補償もありません。反対に、年に何件かは保険適用になるケースもあり、リスクを負うことになります。

誰かを救いたい、という想いが純な形で現れる場でして、そんなところに少しでも役に立てればと思って、数年前から立ち会いを志願しています。

・・・という訳で、インサイダーの話は明日以降に。なお、誤発注の高裁判決が出ましたので、過失の内容も検討してみたいと思います。
 

 

2 インサイダー取引について 1

 

2013/07/24(水)

インサイダー取引に対する規制が改正されました。

 

以下のメモでは、改正にかかる部分だけではなく、これまでに違反したケースへの対応をした経験を踏まえ、今回の改正に適切に対応するにはどのように考えたらよいか、といったあたりを中心に何回か(未定・・・でも一日では無理ですよねえ。)で平易な言葉で述べてみたいと思います。

 

インサイダー取引規制を条文で読むと、やたらと複雑なのですが、もともとのいわゆる構成要件、刑法でいうところのいったい何が犯罪に該当するのか、という点は非常にシンプルなのですね。

 

①重要事実の公表前に

②当該重要事事実を知って取引する

 

というものです。

 

ここから、重要事実ってのは何だ、公表って何だ、知ってというのはどういう状態だ、という話(法律家は論点と呼ぶ)が出てくることになります。

 

重要事実については、金商法上、大別して

 

(1) 発生事実

(2) 決定事実

 

と整理されており、それぞれについて、(a)その会社自体でのことか、(b)子会社でのことか、の2通りに整理されています。

 

インサイダー取引絡みの本を研究のために購入しますと、それぞれの分類についての記載が大量にあります。勉強のため、今のところ事件などには関係ないよ、という方が読もうとすると、かなりうんざりすること請け合いですが、実際の事例では、具体的な取引が前提となりますので、その取引がいかなる取引かについての事実を確定させた上で、その取引がなされた時に、「未公表」の「重要事実」があったか、という形で検討することになります(実際にはもうちょっと複雑ですが、イメージとして)。

 

特に今般の改正で

 

「未公表の重要事実の伝達等の禁止」

 

が加わり、禁止範囲が拡大しましたので、情報を入手しうる立場の方からすれば、株の取引をしないから関係無い、とはいえなくなったわけですね。

 

さらに、重要事実の生じる会社の立場からしても、役職員が未公表の情報を外部に伝達すれば、禁止に抵触しかねませんので、情報の流れを、いかに適切に保つか、といったあたりが大事になります。

 

というあたりで以下、明日以降に。

 

 

序 メモについて

2013/07/24(水)

これからテーマを決めて書いてみようと思います。

 

自分が比較的明るい分野というと、金融(といっても一部)、知財、企業法務といったあたりになりますので、新聞で採り上げられていたり、改正の情報、さらにはまだ目立たないけれど注目に値するのではないか、といった場合に、備忘録的に残すことを目的としようと思います。もちろん、それだけでなく、私が興味を持ったネタなども書ければ、と思っています。

 

事件当事者として書く訳ではないので、あくまでも手控えとして頭で練ったもの、という形になりますが、法曹の端くれが考えるととこうなるのね、といった具合でお読みになった方の参考になればと思います。